あれ?そうなの?

つまり、この言葉は、単なる「相手の暴力・差別に対して服従・無抵抗になれ」という意味ではなく、「暴力は使わず、根本の意味におけるより強い抵抗を示せ」という言葉であった、というわけです。

マタイによる福音書5.39について。右利きの人に殴られたとしてまず右から殴られる(打った)のって変じゃない?を調べてさらに結論としての一文。
これを読んで、抵抗を示したらそれはそれでちょっとした復讐になってしまうんじゃ無いかなぁと思った。
相手が自分の事を殴るのなら殴る理由があるのだから、相手の殴るという行為を受け入れる。急に右頬を殴られても左の頬を向ける事によって相手の殴るという行為をも受け入れなさいという事なんじゃないのかなぁ。
相手を受け入れる事によって結果的に相手をジレンマに陥れたりすることがあるかも知れないけど、そのダメージを期待して左の頬を出すという解釈は違うと思った。同じような事の書いてあるルカ6.29のちょっと後の6.35には「しかし、あなた方は敵を愛しなさい。人によい事をし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。」って書いてあるから何かを当てにして行動するっていうのはやっぱりちょっと違うと思った。
でも、私は口語体になる前の主の祈りの「我らを試みにひきたまわざれ」をずっとヨブにしたみたいな事*1をしないでくださいの事だと思ってたようなアレだし、日曜のミサであまり読まれない部分はよくわからないし、当時の文化に付いても調べたわけでは無いのでちゃんと読むと『「暴力は使わず、根本の意味におけるより強い抵抗を示せ」という言葉』なのかも知れない。
ここまで書いておいて聖書のどこかに聖書を勝手に解釈してはならないと書いてあった事を思い出したのでなんだかもにょもにょするけどここまでにしようと思った。

*1:ヨブなんの利益も無いのに神を信じるのはあり得ないとサタンが言ったので神はヨブ本人に手を出さないなら彼の物一切を好きなようにして良いと言った。サタンはヨブの財産と家族を奪った上にヨブを病気にした